女としての手本はイタリアの中年女と決めてきた。しかし、ただやみくもに彼女たちを見つめ、憧れていた時代から、私自身の年齢は確実にそちらの領域に入りつつある。なぜあれほど彼女たちが華やかな色や大ぶりのゴージャスなジュエリーを好むのか。それが、肌で理解できるようになってきた。四十歳を目前にして、にわかに現実味を帯びてきたということだろうか。放っておけば頬も髪も爪も、すべてが水気を失い、細ってゆく。緩み、下がり、そしてくすんでゆく。女性としての美の存在を二度と顧みられなくなった時、それは何にも増して大きな挫折となるだろう。しかし私はまだそれを知らない。その入り口に差しかかってはいるが、まだ余裕がある。老いてゆく自分を見つめる準備を始めるだけの心のゆとりがある。老いることを恐れ、みっともなくあがくのは嫌だが、あきらめきってしまうのはもっと嫌だ。年をとることは目に見えない財産が蓄積されていくことでもあると思っている。パンと張った若い肌にはない、そんなデカダンな美しさも好きなもののひとつなのだ。たとえばジャンヌ・モローの映画「海を渡るジャンヌ」。まるでこの女優のPR映画のようではあったが、数々の場面に、リアルな老いの情景を見せられ、忘れられないものとなった。中でも冒頭、海の中に立つジャンヌの脚がアップで映し出された時には、ハッとした。それは幾筋もの静脈が浮き出た、もはや老醜としか言いようのない崩れたふくらはぎだったからだ。しかし、全編を通して彼女が着る黒のドレスや花のついた帽子、カナリアイエローのジャケットなどよりずっと、そのふくらはぎはジャンヌ・モローの存在感を物語っていて、印象的だった。ここまで撮影させたこの大女優の心意気。男性には決して得られない、女として生きてきたことの凄味。年をとることも悪くない……、そう思わせられるほどのものだった。